ひたすらないのち 愛知演奏会 メッセージ

伝統の創造的継承を目ざして

豊中混声合唱団 
音楽監督兼常任指揮者
西岡茂樹

日本の音楽史に必ずや残るであろうこの素晴らしい演奏会に豊中混声合唱団をお招き下さり、たいへん光栄に存じます。
最初にお話を頂戴した時、今の豊混の実力ではとてもご期待に応えることはできないのではないかという危惧がまずありました。というのも1998年には、16年もの長きに渡って定期演奏会に客演指揮をしてくださっていた高田先生の招聘がご健康上の理由から叶わなくなり、また高田先生をこよなく敬愛し、その崇高なご指導を噛み砕き、豊混の不甲斐ないメンバーの血と肉にして下さってきた須賀敬一先生が長きに渡って務めてこられた常任指揮者を降りられるという、二つの大きな変化が同時に起こりました。現在、高田先生から直接ご指導を受けたメンバーは半数以下になっており、高田作品の演奏力という意味では、どうしても衰退の傾向にあります。

しかし、私たちは「高田作品を歌う日本の最良の合唱団の一つでありたい」との考えは堅持しており、1998年以降も、現在の名誉指揮者である須賀先生の指揮により、毎年の定演で必ず高田作品を演奏して参りました。その須賀先生から今回の演奏会について、「他団も次世代の指揮者で出演するようだから、豊混も西岡の指揮で受けて立つべし」との激励をいただき、ついには決死の覚悟で出演の決心をした次第です。

思い起こせば私が高田作品と出会ったのは、今から三十年以上も前、高校時代の合唱部の時でした。たしか「水のいのち」や「心の四季」などを歌ったように記憶していますが、作品の美しさに魅せられながらも、当時はその精神性をよく理解しないまま、水の一生、一年の四季を抒情的に歌っていたように思います。そしてたまたま入学した大学のすぐそばで豊混が練習しており、そこに見学に行ったのが今日の私につながる出発点でした。つまり、そこで須賀先生に出会い、そしてやがてそこに高田先生ご自身の姿が登場することになったのです。

私が実際に豊混に入団したのは大学を出た1979年の7月ですが、実はその時に練習していたのが「イザヤの預言」の第三曲でした。かつて抱いていた高田作品のイメージからは想像もできない厳しい音であり、またその内容についてもまったく未知のものであったが故にとても戸惑ったことを覚えています。

高田先生が豊混の定演に客演指揮として初めて登場されたのはその3年後の1982年の第22回定演であり、以来16年の長きに渡り、毎年の定演に客演指揮をして下さいました。私はその間、副指揮者として、また歌い手として、高田先生と須賀先生から実に多くのことを教えていただきました。
しかしそれはあまりにも膨大かつ深遠なものでしたから、未熟な私が意識的に定着できたものはそのうちのごく僅かであり、多くは風のように吹き過ぎていったと思います。ただ今、私がすがるような思いで自らを凝視しているのは、はっきりと定着できたもの以外にも、高田先生のお教えが未分化のまま私の裡に膨大に眠っているのではないかと思うからなのです。

それは音楽に対する厳しさであったり、眼前数メートルで繰り広げられる魔法のような指揮であったり、ソレム唱法と典礼聖歌のことであったり、キリスト教のことであったり、人の生き方のことであったり、歴史認識のことであったり…、つまり類い希な音楽家であり巨人である高田先生という全存在からシャワーのように浴びたことがらなのです。

高田先生の曲であるか否かにかかわらず、私が指揮をしていて時々はっとさせられるのは、無意識に表出された指揮棒や言葉が、後で考えてみると高田先生の影響を受けた結果であることに気付くのです。

もちろん私は豊混以外の団においては高田作品をたびたび指揮してきました。それは高田先生亡き後、不出来な一人の使徒として、お教えいただいたことを一人でも多くの合唱人に伝道してまわることが、せめてものご恩返しになると思うからです。

しかし本家本元の豊混において高田作品を演奏するのは、やはり実に厳しい試練であります。その際、敢えて高田作品の最高峰である「イザヤの預言」をとりあげたのは、それが私と豊混と高田先生との出会いの出発点であり、また同時に自らの退路を断ちたいとの覚悟からです。

本日の演奏は、私自身の力不足そして練習不足の誹りを免れないと思いますが、高田先生と須賀先生から教えていただいたことを核に据え、私なりの美学と哲学を注ぎ込んだ演奏の第一歩になればと願っています。