Tokyo Cantat 2008 「廃墟から」プログラムノート   西岡茂樹

悲運と豊饒の島「沖縄」からの祈り 西岡茂樹

「廃墟から」は、岡崎高校コーラス部と岡崎混声合唱団の委嘱により誕生し、2007年度の合唱コンクールにおいて各楽章が初演され、去る3月16日の両団の第29回定期演奏会において、全3曲からなる組曲としてまとまった形で初演された。

さて、「廃墟」とは何か? それは戦争の爪痕である。第1楽章「絶え間なく流れていく」は原民喜の詩によるヒロシマの惨禍を、第2楽章「ガ島前線」はガダルカナル島の惨禍を歌い、そして第3楽章「葬送のウムイ」では沖縄戦の惨禍を踏まえながら、すべての死者への鎮魂が歌われる。いわば第二次世界大戦での日本の敗戦につながる三つの惨禍を結ぶ太平洋トライアングルである。なお、本日は第1楽章は演奏されない。

私事になるが、私が初めて沖縄に降り立ったのは某合唱団の沖縄演奏旅行で指揮をするためであったが、その時、受け入れをして下さった現地の関係者が、普通のガイドブックには載っていない沖縄戦の爪痕をあちこち案内して下さった。それまで、書物やテレビで見聞きしていたことを遥かに超える実相が眼前に展開した時の衝撃は、未だに鮮烈に脳裏に焼き付いている。 一方、その旅で同時に感じた沖縄の自然、文化、そして人々の生き様の「豊穣」は圧巻であり、「悲運の島」との落差があまりに大きくて、胸が締め付けられる思いであった。 そう、まさに「悲運」と呼ぶしかあるまい。平和な海上交易の島国であった琉球王朝が、島津侵攻とそれに続く琉球処分によって日本に組み入れられ、大戦末期には日本で唯一の地上戦の舞台となり、さらに戦後、「本土復帰」を果たした後も米軍が駐留を続け、今なお基地移転問題や米兵の不祥事に揺れ続ける…。 抗うことができない巨大な力に翻弄され続ける島。しかし、それに屈することなく、逞しく生き続ける島。豊かな自然の恵みに育まれたウチナンチューの魂が見事な「豊饒」を醸し出す島。

さて、本日、歌われる沖縄の「葬送のウムイ」では、直接的には戦争のことは何も歌われない。その役割はオーストラリアの北東に位置するソロモン諸島の中の「ガダルカナル島」が担っている。 1942年、日本軍は伸びきった南方前線の先端にあるガダルカナル島に飛行場を建設すべく上陸する。しかし、すぐさま連合軍の攻撃に遭い、約半年間の大激戦の末、日本軍は「転進」と称して撤退せざるを得なかった。太平洋戦争の大きな転機となった敗戦である。 その間の戦闘による死者は約五千人。圧倒的な装備の差により、日本兵はなすすべもなく、猛砲火の嵐の前に倒れていった。しかし、その数を遙かに上回る別の犠牲者が出た。それは「餓死」である。補給路を断たれた島に取り残された日本兵は、「米なく、粥とり、粥なく、草はみ…」と記された言葉どおり、ジャングルの中を彷徨い、飢えてバタバタと死んでいった。 「ガ島前線」の作曲にあたり、信長さんは《「ガ島」=「餓島」の戦況を印象づける単語や文節を切り取って使用している。また戦時の狂信と、狂信から覚めた空虚の心理の対比を、音楽の展開の中に組み込んだ。》と書いておられる。不協和音で力無く奏でられる「君が代」のエンディングは極めて印象的だ。

そして音楽は、ガダルカナル島から沖縄へ、そしてすべての戦争の死者達へと向けられる。 沖縄戦における日本側の死者は18万人を越える。そしてその半数以上が民間人と言われている。その地獄は筆舌に尽くし難い。しかし、信長さんは、敢えて沖縄ではそれを歌わず、死者達への鎮魂、平和への祈りの場とされた。それが沖縄に託された役割であり、沖縄への畏敬なのだろう。 「葬送のウムイ」は、沖縄のお葬式で歌われる神歌であり、ここでは沖縄本島の勝連町平安名に伝わるテキストと音楽の断片が使われている。 《曲中、繰り返し出てくる「ヨーンナ」という言葉は、具体的な意味を持たない囃子言葉のようなものである。「ゆっくり」という意味の沖縄方言でもあるが、ウムイの中でその語意が生きているかどうかは不明だ。私には、キリスト教歌でいうところの「アーメン」のような位置づけの言葉のようにも思える。》と信長さんは書いておられる。

沖縄。すべての苛烈な歴史を内に抱きながらも「豊饒」が満ちる島。沖縄は地球の未来に対する一条の希望だ。今回のカンタートの企画の趣意も、そのあたりにあるのだろうか。それに応えうる演奏になることを祈りつつ。