廃墟から 信長貴富氏から寄せられたメッセージ 2008年7月12日 豊中混声第48回定期演奏会
廃墟から 〜無伴奏混声合唱のために〜 信長貴富 この作品は岡崎高等学校コーラス部・岡崎混声合唱団の委嘱により作曲、今年の3月に全曲初演された。初演後間もなくの5月に催されたトウキョウ・カンタートで第二章・第三章を素晴らしい形で紹介してくださった豊中混声合唱団が、今日は全曲を取り上げてくださるとのこと。技術的にも精神的にも困難を強いるこの作品に対して、果敢にそして共感を持って取り組んでくださることには、大いなる敬意と感謝の念を抱かずにはいられない。終戦の日を約一ヶ月後に控えた今日この日、「廃墟から」がどのような意味を持って会場に響くのか、みなさんと一緒に確かめたいと思っている。 なお幸いなことに、今日の演奏会から数日後に本作品が音楽之友社から出版される運びとなった。作品については出版譜の前書きから以下に引用させていただく。 私の曲の中には、戦争をテーマとしたものがいくつかある。戦争体験を持たない私が戦争のことを作曲の「題材」とすることにはいささかのためらいや、罪悪感に似た感情もある。しかしそれでもなお逃れられない思いで今回もまたそれを選んだ。 私がこのテーマを逃れられないと感じる理由の一つは、母がヒロシマの被爆者だということにある。原爆投下の瞬間に母は爆心地からさほど遠くない場所にいた。母の二人の兄(つまり私の叔父にあたる)はその時に亡くなっていて、墓碑には原爆死の文字が刻まれている。私が幼い頃、それをまるで昨日の出来事のように祖母が語って聞かせてくれた。自分は命の続きを生かされているのだという意識が、幼い私の中にすでに芽生えていたように思う。 最近になって沖縄を旅行した際にあらたな「理由」に出会った。その時たまたま日程に余裕があり、何気なく本島南部の戦跡をめぐることにした。避難場所として用いられた「ガマ」と呼ばれる自然洞窟には、負傷兵や看護の女学生、焼かれて死んだ人々のうめき、臭いが、今にも甦ってくるようだった。また、いくつかの資料館を回るうちに、自分がいかに無知であったか痛切に感じるに至った。このことを知らずに沖縄を「観光」していた自分が恥ずかしかった。一方ではヒロシマの当事者であるかのように自分のことを感じていた私だったが、2年前の沖縄旅行を経て、歴史に対する無知を自覚すると同時に、もっと知らなければという欲求に駆られた。 一つの戦争をとって見ても、立場が違えば様々なとらえ方ができる。また、その傷に触れられたくないという当事者の思いもあるだろう。私の作曲は身勝手な行為かも知れないが、しかしそれでもやはり逃れられずにいるのは、生き続けるために問い続けなければならないと思うからである。その問いを、岡崎高校コーラス部と岡崎混声合唱団の皆さんとなら共有できるのではないか、と考え、《廃墟から》を作曲した。 作曲にあたっては、広島、太平洋上のガダルカナル島、その間に浮かぶ沖縄という3つの戦地を取り上げ、一つの時代を捉えたいと考えた。《廃墟から》というタイトルは、原民喜の「夏の花三部作」と呼ばれる小説のうちの一つから採ったものである。 第一章 絶え間なく流れてゆく 原爆詩人として知られる原民喜(1905?1951)の散文(「夏の花」・「鎮魂歌」)と詩集(「原爆小景」・「魔のひととき」)から抜粋し、テキストとした。曲名は「鎮魂歌」の冒頭の一文「美しい言葉や念想が殆ど絶え間なく流れてゆく。」から採ったもので、作曲の着想は主にこの「鎮魂歌」の文体から得ている。私は「鎮魂歌」について、フラッシュバック(強い心的外傷を受けた後、その記憶が鮮明に思い出されたり、夢に現れる現象)を文章化したものではないかと想像している。作曲はその心理現象を追体験する行為だった。 被爆から6年後、原民喜は自殺している。被爆体験は彼に文学者としての覚醒をもたらしたと言えるが、同時に人間への絶望を決定づけるものでもあった。原民喜の言葉、そして無数の死者の言葉を聞き取ることが、いま生かされている私が表現者としてできることなのだろうと思う。 第二章 ガ島前線 「ガ島」とは太平洋戦争の激戦地となったガダルカナル島の略称である。ガ島戦により戦力を消耗した日本軍は、そのあと敗戦までの泥沼を歩むことになる。物資の不足や暑さなどから、夥しい数の兵士が餓死したことでも知られる。「ガ島」が「餓島」と当て字されたのはそのためである。 吉田嘉七(1918?1997)はガダルカナル島に派兵され、現地で詩を書き記した。詩は陣中新聞『うなばら』に掲載された後、『ガダルカナル戰詩集──前戰にて一勇士の詠へる──』として毎日新聞社から1945年2月に出版されている。戦時中ことであるから、兵士の奮闘を伝え国民の戦意を高めるねらいで出版されたものと思われるが、惨状の実記という意味で貴重な文献であると言える。 井上光晴(1926?1992)が書いた詩「ガダルカナル戦詩集を詠じて──何ぞ苦言する」は、吉田嘉七の詩に応える形で、やはり戦時中に書かれたものである。当時の井上はいわゆる「皇国少年」であり、この詩も兵士の死闘に比して自らの苦しみは取るに足りないものであるという文意が見て取れる。しかし戦後の井上は思想を転換させた。小説『ガダルカナル戦詩集』では、思想統制(いわゆる「赤狩り」)に怯える青年の姿を描き、戦後文学者として頭角を現した。この小説の中で吉田嘉七の同名の詩集がモチーフとして扱われている。 作曲上は、「ガ島」=「餓島」の戦況を印象づける単語や文節を切り取って使用している。また戦時の狂信と、狂信から覚めた空虚の心理の対比を、音楽の展開の中に組み込んだ。 第三章 葬送のウムイ 「ウムイ」とは「神歌」とも呼ばれ、沖縄の神事で歌われる歌のことである。『日本民謡大観』(日本放送出版協会刊)によれば、「沖縄のムラでは御嶽(うたき)と呼ばれる小高い聖地を中心に、ノロ(祝女)を頂点とする女性の神役たちがムラの祭祀を執り行っている」とのことで、ムラ(集落)ごとに様々なウムイが存在する。現在では神事が実際に執り行われることが少なくなり、ウムイを伝承する女性は稀少となっているようだ。 作曲にあたっては、数々のウムイの中から、沖縄本島の勝連町平安名に伝わる「葬式のウムイ(そーしきぬうむい)」を題材として用いた。実際に歌われるウムイは、非常に遅いテンポによって言葉が引き延ばされ、メリスマ的に細かい節回しで歌われる。しかし作曲上は、曲の冒頭で現れる男声ソロの中に実際の節回しの断片が現れるほかは、旋律をそのまま用いることはしていない。その背景には、本来御嶽という厳粛な場において神人(かみんちゅ)のみが歌うことを許されたウムイの節を、作曲の名の下に安易に拝借することが憚られたという理由がある。沖縄の言葉と旋法を私なりに昇華させた結果の音楽となった。 曲中、繰り返し出てくる「ヨーンナ」という言葉は、具体的な意味を持たない囃子言葉のようなものである。「ゆっくり」という意味の沖縄方言でもあるが、ウムイの中でその語意が生きているかどうかは不明だ。私には、キリスト教歌でいうところの「アーメン」のような位置づけの言葉のようにも思える。 |