地図にない川


『地図にない川』に思いをはせる

萩京子

 『夏の本』を作曲したのが1986年。それが私のはじめての合唱曲作品です。以来、『空をかついで』『手』『朝のパン』等、折りに触れて、石垣りんの詩に作曲してきました。それらはソング、長編歌曲、合唱曲と、形式は違いますが、私のなかではひとつのものがつながっているように思います。

 私は石垣りんさんの自作の朗読に立ち会ったことがあります。りんさんの声は、私が詩から想像していた声とはかなり違っていました。私は詩からイメージして、少し低めの音色を感じていたのですが、りんさんご自身の声は、とても細くて高いきれいなかわいらしい声でした。そして、そのかわいらしい声で「夜が明けたらドレモコレモミンナクッテヤル」(『シジミ』)などというフレーズを聞くと、かなりすごみがあるのでした。

 このたび、大阪・豊中市の「アルモニ・レジュイ」と山口・徳山市の「あい」のふたつの女声合唱団から作曲の依頼を受けて、女声合唱曲を作曲しようとしたとき、私は古今東西の女性のことばで織りなす綴れ織りのような曲を作ってみたいと思い、『女たちの言葉』(久保覚・選、青木書店発行)から、ことばを選び始めました。しかしその中に「私は真紅の海/海に見えないだけ。」(石垣りん「海のながめ」より)があり、そのページから目が離せなくなり、やはり、石垣りんの詩で、全曲書こう、と思い直したのでした。

 そして「川のある風景」「用意」「海のながめ」「干してある」「鮎」という5篇の詩を選びました。どれもこれも、ほんとうに毒というか、ドスを隠し持っているような詩だと思います。やさしさと激しさ・・・。

 私はビリー・ホリデイの伝記『奇妙な果実』を読んだとき、自分をあざけった人、裏切った人を決して許さない激しさと、すべてを受け入れるやさしさを感じ、彼女の声の持つ包容力の秘密を知ったように思いました。石垣りんの詩に対しても、同じように感じます。毒はあとになってきいてきます。しかし、その毒は私たちを苦しめるのではなく、最後には希望を感じさせてくれます。

 「地図にない川」をさかのぼる一匹の鮎として、私の書く音楽もそのようでありたいと思い、作曲しました。