《縄文連祷》 プログラムノート


《書かせるなにものかの存在》

三善 晃

 豊中混声の定期演奏会で《五つの願い》、続いて《ぼく》を振って下さった西岡茂樹さんが、今回は《縄文連祷》を採り上げて下さる。西岡さんは、昨年夏の「創る会」のメンバーとして、この曲の初演に参加して下さってもいる。

 去年の定期は東京でも行われたので、豊中混声・西岡の《ぼく》を聴くことができた。それを“聴く”ことは、僕にとって、音を感受するにとどまらない体験だった。それを超え、音の働きはむしろ消えて、なにものかを悟ることのようだった。
  なにものか。まず、谷川さんの詩が確かにあった。しかしそれも、そのときは消えている。僕の体験とは、たとえば、水鳥か翔び去ったあとの水面に残った波紋を見ることのようだった。そして、その紋様を見ることは、なんと翔び去ったものの本当の姿を悟らせてくれることだったろう。僕は自分が書いたものをでなく、自分にそれを書かせたものの存在を、この演奏から識らされたのだった。

 《縄文連祷》は、宗左近さんの魂の響きが僕を輝(ひび)入らせてくれた、その小さな割れ目から流れ出した。
  これは、弔うためではない折り、鎮魂のためではない祀(まつ)り。だから、痛恨の和音は燦めき、悲嘆の旋律も輝かなければない。僕はほとんどその燦めき輝く光だけを見ていた。光は、生が死を宿すように影を宿し、うつろえば影が光を宿すようでもあった。そのなかに人々の群像が見える。誰かがいて、それが自分の姿と交差していた。
  ここにも、僕に書かせたものがある。その、音が生まれる前の僕の混沌の靄(もや)のなかに、詩人の魂の響きとして満ちていたなにものか。それを豊中混声と西岡さんは、また識らせてくれるだろう。

第31回豊中混声合唱団定期演奏会(1991年) プログラムより