あなた プログラムノート


《あなたがいなかったら…生命を歌って下さい》

ー 豊中混声と西岡さんへ ー

  1990年の第30回豊中混声定期公演で《ぼく》を演奏して下さった西岡茂樹さんが、この度は《あなた》を採り上げて下さるとのこと。豊中混声=西岡の音の世界が、連作の第2作へと近付きつつあることで、いま私のなかにちなにか昂ぶるものが兆し始めている。

  《ぼく》(87年)では、生まれた日へと回帰してゆく少年の「虹の生命]を、《あなた》 (89年)では、“わたし”とそっくりな“あなた”に「自画像という他者の鏡像」を見る少女の絶望に育まれる愛を、歌い描こうとした。虹と鏡。一人と二人。生死の円環と自他の迷宮。谷川俊太郎さんは、それら、もしかすると虚しくさえ感じられる仕組みを描出しながら、そこに生き、だれかを愛する人間の真実を啓示する。

  ヒトはヒトビトのなかに生まれ落ちる。初めにヒトビトの世界があり、それが生まれ落ちたヒトのなかに入ってきて、ヒトの内容となる。だから幼児は、鎖のなかの自分よりも先に、鏡のなかの他人を名指しする。まずは自分を見知らないのだ。やがて子供は、世界とはヒトビトの総体であることを悟り、そのあらゆるヒトビトでないもの(=総ての他者の残り)が自分だと気付く。自分は常に、総ての他者の他者なのであり、自分とは、自分
という輪郭を持った個ではなく、ある“関係”に過ぎないのだ、と。

  それは虚しいことだろうか。ヒトビトはみな、それぞれ固有な“関係”であり、言葉はその間に発し、交わされ、“関係”の関係を確かめる。《あなた》の終わり近く、“わたし”は言うではないか。「けれどもし あなたとであわなかったら わかしはいない]と。「いない」のだ。だが、「いる。あなたとであったから」…“わたし”の内容が“あなた”(誰か)であることの生命の、この切なくもいとおしい不条理。

 それが豊中混声=西岡の音の世界で、あの深い遠近法のなかで、どのように歌い描かれ
るのか。…昂ぶるものが兆し始めている。

三善 晃

第32回豊中混声合唱団定期演奏会(1992年) プログラムより