バラード生誕、そして再演までの二十年への想い


 

 これまでに豊中混声合唱団(以下、豊混)は2度、東京で演奏会を開催している。最初は1990年、そして2回目は1996年であり、そしてその両者において私は三善晃先生の「ぼく」と豊混の1994年の委嘱曲である「伝説」をそれぞれ指揮している。「伝説」は男女の語りと合唱、そしてピアノが紡ぎだす「生と死の壮絶な輪廻」であるが、オーチャードホールのステージでは、なんと三善先生が男の語りを担当してくださったことが懐かしく思い出される。

  だからというわけでもないが、豊混としては初めてのTokyo Cantat、ここは何としても三善先生の作品でと初めから決めていた。そして選んだのが、これまでに幾多の名演がひしめく「地球へのバラード」。谷川俊太郎先生の詩ということでは、創る会で委嘱した「愛の歌」も捨てがたかったが、やっぱり心が定まったのは「バラード」だった。

  「人間をふくむ生命の星としての地球への愛を歌いたい」との東大柏葉会の意向を受けて、三善先生が「バラード」を書かれ、初演されたのは1983年のことである。

  ちょうど、世界ではようやく東西冷戦の緊張が緩和に向かい始め、日本も高度経済成長の終焉によって人間と社会を見つめ直し始めていた時期である。IUCNや UNEP が「持続可能な開発」なる概念を提唱したのは1980年のことである。私たちは「宇宙船・地球号」なる認識を持ち始めたのだ。

  そして折しも、私が豊混の定期で指揮を始めたのが1985年、その年は「小さな目」、そして翌1986年にとりあげたのが「バラード」だった。世界が新しい秩序に向かって歩みを始めていた、いわば第二のルネサンスともいえるこの時期、私も若かった(31才!)し、私たちの「バラード」は、苦悩を背負いながらも、未来の眩しい光を浴びて輝いていた。

  しかし、その後20年を経て、世界は、私たちはどうなったのだろう。
 確かに「ベルリンの壁」は崩壊したが、また新たな別の壁が今も造られ続けている。ミサイルが建物を破壊し、人を殺戮し、社会を破壊したかと思ったら、そのすぐ後から、莫大な金をかけて復興事業をしている。核保有国は増え、森林伐採は進み、地球温暖化はもはや待ったなしの状況である。

  日本は、性懲りもなくバブル経済へと進み、その崩壊とその後の失われた十年により、経済にも、社会にも、そして人々の生活にも心にも、大きな傷跡を残してしまった。身の周りで考えられないような事件が起こる。池田小学校の惨劇は私たちの隣町の出来事、そして私の周囲にも犠牲の傷跡が残る人々がいる。(これが契機となり、子供と大人が共に歌う「葉っぱのフレディ」を三善先生に書いていただいた)

  今、この20年間はいったい何だったのだろう、と自問してみる。今宵の演奏は、それに対する一つの答となるだろうか。私も年をとったし、日本も地球も年をとった。その分だけ、少しは知恵もついたのだろうか。

  谷川先生の詩は不変、しかしその言葉の重さは時の経過と共に増す。三善先生の音もまた不変、しかしその祈りは時の経過と共に深くなる。
 三善先生は仰る、「そこに地球が浮いている。何ものにも支えられず、しかしすべての生命を支えながら。」と。

  「くやしさといらだち」がさらにつのった今、私たちは新たな地平を望見できる場所に立っている。そして21世紀の混沌を眼前にしながら、「名づけられぬもの」への畏敬を胸に、20年前には支えきれなかった「鳥」の八分音符=64、「夕暮れ」の四分音符=48の広遠な世界を生きる勇気と力を持ちたい。そして、「涼しい風に吹かれ」ながら、「何度でも帰って来よう」と言える私たちの故郷、この世界、この地球を、焼け付くように焦がれ、そして歌いたいと思う。

  この時期の東京での演奏会ということで、豊混としては必ずしも万全の体制ではないのだけれど、谷川先生の朗読に導かれて、大阪から持参した20年ぶりの熱い熱い「浪速(なにわ)のバラード」をご披露させていただきたい。

2005年5月3日
西岡茂樹