「遙かな歩み」は、「機織る星」「櫛」「花野」の3曲からなる女声合唱組曲である。3曲は、今から40年以上前の1970年から1971年にかけて、それぞれ関東の別の合唱団によって初演されている。 詩を書いたのは村上博子さん(1930~2000年5月)、作曲されたのは今年、生誕100年を迎える「髙田三郎先生(1913~2000年10月)、お二人はカトリック信者であり、また、偶然にも同じ年にお亡くなりになっている。 高田三郎先生は、その名前を知らない合唱人は、日本にはまずいないと言っても過言ではないくらい、日本の合唱界に偉大な貢献をされた作曲家である。その作品年表を見てみると、最初の作品である管弦楽曲「山形民謡によるバラード」が作曲されたのが1941年、以降、毎年のように作品を発表され、1956年あたりから合唱作品が登場する。不朽の名作「水のいのち」は1964年、そして「心の四季」は1967年であるが、その同じ年に村上/高田コンビによる女声合唱組曲「雛の春秋」が書かれている。これがお二人の最初の共作となる。 全日本合唱連盟の機関誌「ハーモニー」NO.86に、お二人が出席された座談会の記録があるが、そこで高田先生は村上さんとの出会いをこのように書いておられる。 『ぼくと村上さんとの出会いは「雛の春秋」です。カトリック新聞の編集長の橋本さんという方が、新聞に毎号詩を載せていますけど読んでいてくださいますか、と電話がかかってきたんですが、その詩人が村上さんで、橋本さんからその詩集を送っていただいたのが村上さんと出会った最初です。おねえさんが亡くなられたのが大きな精神的できごとだったんですね。その詩が詩集のあとの部分に入っていて、はじめの半分に「雛」の詩が二十編以上あるんです。(中略)女性の中でこれだけ腰の決まっている人はいないなと思いました。センチメンタリズムがいっさいないんです。』 一方の村上さんはこんな話しをされている。 『作曲していただきました二つの組曲「雛の春秋」と「遙かな歩み」については、私はこれらの詩が高田先生の歌の翼にのって、思いがけないほど多くの方々の心と声のあるところに運ばれましたことを、いつも深く感謝しております。そしてこれらの歌はもう作詩者の私をはるかに越したものですので、平凡な日常に心がゆるんでいることに気づく時、今どこかでだれかが、この歌をうたっていてくださるのだ、と思って襟を正す気持ちになり、私自身もまたこれらの歌にふさわしい人間になれますように、といつも祈っております。』 これらのお話から、お二人が深い信頼と尊敬で結ばれておられたことが痛いほど伝わってくる。この運命的な出会いがもたらした二作目の奇跡が今日歌わせていただく「遙かな歩み」である。 三つの詩は、すべて、女としての生き様、心と形、祖先から子孫までの血のつながり、日本の自然・文化への愛情、良き伝統の継承などが、通奏低音のように鳴り続けている。 先の座談会で、高田先生はこのようにも話しておられる。 『村上さんの詩は全部死に関係がある。おねえさんの死が、この人の重要な精神的柱になっている。その次の「遙かな歩み」の方はお子さんの死のあと書かれた。最後、「歩んでいく、歩んでいく」と終わるでしょう。あれは、もう歩けない、もう歩けないという意味だと僕に言われた。そう思ってぼくも作曲している。』 日本の女声合唱の古典的名曲となったこの曲を、高田先生生誕100年の今年、今の世ならではの新しい光をあててみたいと思ってとり上げた次第である。 高田先生は、『「遙かな歩み」は過去へ遙かであると共に、未来へ向かっても遙かであることに思いをとめられたい。』と楽譜のノートに書いておられる。この曲が、これから先も永遠に、日本の、特に女性たちに大きな宝物を与え続けてほしいと願うばかりである。 最後に私事になるが、私は若い頃、16年間に亘り、豊中混声合唱団において、高田先生の直々の指揮で多くの氏の作品を歌ってきた。その体験から得られた知恵と知識と技能の大きさは計り知れない。私という人間の根幹を形成したようにすら思えるのである。心からの感謝を込めて、この記念すべき年に極上の「遙かな歩み」をプレゼントしたいと願っている。 ちなみに高田先生はお酒が大好きで、厳しい練習の後、よくご一緒させていただいた。お酒が入ると、いつも上機嫌で、さらに雄弁になり、青二才の私にもいろんなお話をして下さったことが昨日のことにように思い出される。高田先生!今日は「遙かな歩み」を酒の肴にして呑んでくださいね。 西岡茂樹 |