合唱曲「みなまた」


大阪大学混声合唱団・大阪市立大学合唱団フリーデ ジョイントコンサートの合同ステージ プログラムへのメッセージ寄稿

日時 :1997年7月5日(土)

場所 :八尾市プリズムホール

指揮 :西岡茂樹


 

『合唱曲「みなまた」を創る会』の委嘱曲であり、1992年11月8日、田中信昭指揮、佐藤信演出、第5回熊本県民文化祭「音楽の集い」合唱団により、水俣市文化会館において初演された。

まず、曲の誕生の経緯について記したい。 言うまでもなく「水俣」という地名は、公害病の代名詞として世界中に知れわたっている。公式発見から40年もたって、昨年、ようやく一応の政治決着は見たものの、その傷跡は、今も深く残っている。特に、チッソの企業城下町として存立していた水俣の地域社会に生じた亀裂は、容易に癒えるものではない。

しかし、汚染された自然も、また軋んでいた地域社会も、多くの人々の不断の努力により、ゆっくりと、しかし確実に回復してきている。不幸な歴史を二度と繰り返すまい、との決意のもと、水俣は「再生」に向けて歩みだしているのである。

私も3年前に初めて水俣を訪れ、市内から周辺の漁村部まで、車であちこちを巡ってみた。そこには、目を見張るばかりの美しい天草の海と豊かな自然が息づいていた。そして、人々が、それぞれの立場から、再生に向けて、さまざまな取り組みをしているのを肌で感じ、大きな感動を覚えたのであった。

にもかかわらず、世界中に知れ渡った公害の代名詞としての「水俣」のイメージは依然として払拭されていない。差別と偏見に満ち満ちている。 そのことは、再生の道を歩みだそうとしている水俣の人々にとって、どんなに辛く、また落胆させられることであろうか。特に、未来を担う若者にとっては、耐え難いことであるに違いない。

「今の、本当の水俣を知ってほしい」、この素朴な願いが市民運動となり、作曲家、柴田南雄氏を動かした。そうして誕生したのが、この合唱曲「みなまた」である。  

曲は3部から構成される。

第1部「海」は、水俣出身の文学者、徳富蘆花(1868〜1927)の「自然と人生」および本居宣長の「古事記伝」をテキストとし、古来からの美しい天草の海が、不知火などを素材にしながら、人々の深い信頼と愛情に満ちた声により歌われる。  

第2部「浜の唄」は、水俣の浜に伝わる4種の民謡旋律によるコラージュであり、人々の生き生きとした生活感情が歌われる。

第3部「淵上毛銭の四つの詩」は、やはり水俣出身の詩人、淵上毛銭(1915〜1950)の詩をテキストとしている。淵上毛銭は、結核性関節炎を患い、35才で世を去っている。長い闘病生活の中から生まれた詩は、生と死が交錯しながらも不思議な透明感と凛とした叙情に満ちている。

このように、合唱曲「みなまた」では、水俣病そのものは直接的には歌われない。美しい海と、そこに美しく生きようとする人々の姿が歌われている。しかし、その美しさへの焦がれの対極として、水俣病もまたはっきりと音楽的に暗示されている。

本日、ステージで歌う学生諸君は、「公害」という言葉自体があまり語られなくなった時代に育ってきている。水俣病についても過去のこと、との認識が大半であろう。 しかし、水俣病の悲劇を生んだ構造的問題、経済優先の論理、産・官・学の醜い癒着など、状況は一向に改善されていないことは、HIV訴訟を見るまでもなく明らかである。 合唱曲「みなまた」を歌う体験を通じて、水俣と水俣病の歴史を知ることにより、多くの教訓と再生にかける人々の営みの尊さを自分のものとし、未来の日本を担っていってくれることを、私は願ってやまない。

「源 〜われらみなまたに想う〜」、彼ら自身がつけた演奏会のこのサブタイトルが、今宵の演奏でどのように表出されるのか、そして聴きに来て下さった皆さんは、私達の演奏から何を感じ、何を想われるのか、その瞬間が待ち遠しくてならない。

客演指揮者 西岡 茂樹